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2011/08/26

今後のSNS 〜醤油と納豆のタレ〜 学生の戯言

FoursquareがFacebookに勝利する理由 ソーシャルの最先端は単機能アプリ?

って記事を読んだ。ふふふ。SNSとか大好きな私が今後を占ってみようと思う。

そもそも個人的に、なんでSNSを使いたいか?って質問には答えられなくていいと思ってる。友達と会いたい、友達と話して面白い経験をしたい、彼女が欲しい。それら全部に必ずしも理由がないように、人は「なんとなく」SNS を使うものだと思っている。

そしてSNS のファンクションは「友達との共有」をするものであると定義すると、
どのように「友達」と関わるか
なにを「共有」するか
に分けられる。

ここまでかなり個人的見解。

先の記事はとてもいろんなSNSが上手くまとめられていた。友達との関係性、で言うと大きく分けて3つの友達との関わり方がある。

1. まず一つ目はFacebook, Twitter 型: 知り合い全部を巻き込む感じ
今更FacebookやTwitterの説明は省略


2. もうひとつは Color 型: 説明は後にあるけど近くの人を巻き込む感じ


引用の引用になってしまうけどcolor の説明
例えば結婚式の2次会やパーティなどで写真を撮ると、その会場にいるColorユーザー全員が1つのグループになり、それぞれが撮った写真を全員で見る ことができるわけだ。だれかに自分のカメラを渡して自分の写真を撮ってもらうこともない。だれか が撮った写真は、その場ですぐに自分のスマートフォンに転送されるからだ。

ほかのユーザーとの人間関係の近さは、物理的な近さで認識される。同じパーティ会場でも同じテーブルに座るほどの近い距離のユーザーのほうが「人間関係が近い」と認識するわけだ。

ユーザー自身が自分の「ソーシャル・ネットワーク(友人の輪)」を定義しなくても、スマートフォンが「関係が近い人間」の輪を自然に決めてくれる仕組みになっている。
常識を揺さぶる新アプリ「Color」は、新たな時代を築けるか【湯川】 : TechWave

3. そして最後が Google+ (mixi) 型: 後に説明あるけど自分で誰に公開するか選ぶ感じ。どっちかというとFacebook やTwitter型
何かの計算式を用いて自動的に人間関係を定義するのは無理。それなら人間関係の定義をユーザー自身が簡単にできるようにしたほうがいい。そう考えて設計されたのがGoogle+のサークルという仕組みだろう。


ダイソンによれば、GoogleはFacebookの問題点を理解し、その解消を試みた。Facebookの主要な問題は、すべ ての友達がまとめて一括りにされていることだという。Google+はこの点について、友達を必要に応じて自由に分類してサークルに入れるという方法で解 決した。(エスター・ダイソン、「Google+サークルの非対称性は後発の有利さを生かしたもの」by TechCrunch

これらで着目されているのは「誰に共有するか」

多分みんな思い当たるフシはあると思うけど、自分はSNSって種類によってターゲットにしているコミュニティが違う。
例えばmixi はどっちかというと高校の友だち、twitter はどっちかというと大学の友だち、Facebook は海外の友達というような形で自分は場合分けしている。
ただ最近Facebookやツイッターはよく使うけど、mixi は全然活発でなくなってきた。少しずつFacebookやTwitter に流れてきているのが分かる。

そしてさらに最近は何を共有するか、を含めてSNS のようないわゆるアプリケーションを使い分けている人が居る。例えばFoursquareなりInstgram なり。

ただFacebook だってFoursquare のような機能はあるし、写真を共有するにはどのようなSNS を使っても写真なんて共有することが出来る。それに公開範囲だってgoogle + とかならば何をシェアするか、そして誰にシェアするかってのを全部使い分けることが出来る。うまく使いこなせばだけど。でもそれを使っている人はあまり周りには見受けられない。何故か?

人側のアプローチはもうされているのでUsability などを学んでる身として、インターフェイスの視点にたって考えてみようと思う。


個人的にそれは、今どのように人がSNSを使っているかに関わるのだと思う。
どういう事か?
要はスマホのせいって言いたい。よく自分は「スマホいいなー」と言う。「Twitter いいなー」ではなく。そもそもスマホ上で何を使っていようと、その人が使っているのはFacebookでもFoursquare でもTwitter でも何でもなく、「スマホ」であるのだ。

スマホにあるボタンをひとつ押すだけでアプリケーションを選択することが出来る。例えば場所の共有。Foursquare を用いることに比べるとFacebookで場所を共有するのは一手間多いハズだしシェアする相手がそれを望んでいるかすら分からない。さらに誰に共有するかもFoursquare ユーザーだけに共有できるなど、一つの機能に対して一つのアプリケーション、一つのコミュニティというとても分かりやすい構造になっているのだ。これは人間の本能的なことなのかどうなのか分からないけど、そもそも人間はそういうものに囲まれて生きてきたはず(Catch me if you can, I am a Computer参照)
うーーん。。。あんまり上手く説明できなかったけど以下を見て欲しい
ほとんどの人が知っていると思うけどfacebookのスマホver のインターフェース。これらのアイコンて・・・もちろん違うけど、スマホのトップの画面から見えるアイコンとあんまり変わらないよね?w強引すぎるかもしれないけどw facebookの中の一つのアイコンを選ぶことと、スマホの中の一つのアイコンを選ぶことに対する手間が変わらないのであれば、人はおそらく一手間少なく、そして特化している方を選ぶ。



納豆食べる時に醤油よりも納豆のタレみたいのを好むイメージ。あんま変わらないし、醤油なんていつでも手元にあるけど、ちょっとこっちのほうがそれ専用とか言ってるしこっちつかったほうが得する気がする、的な。納豆もこっちを望んでるんじゃないか、的な。醤油に手を伸ばすよりもこのパックに入ってるヤツのほうが楽に使える、的な。つまりFacebookは醤油で、Foursquare は納豆のタレなのですよ

だからそもそもコミュニティを選ぶ必要がない(Google+とかより楽) し何をシェアするかも選ぶ必要ない(いろいろ楽) そしてなにかしら特化した微妙に面白いFunction がある、だから人はFoursquare を選ぶのだ。なんとなく。こないだ Catch me if you can, I am a Computer の中でも言った言葉を最後に引用

この方が「わかりやすい」とか「あつかいやすい」と思う事が多いのは動物としての本性として「1個のモノに1個の機能」の方が扱いやすいからか、「何でも インターフェイス」にしたが故に全てに対応する事が出来ていないからか分からないけど、今後もう少しまた「1個のモノに1個の機能」の方に流れが行くと思 うんだよな。
まーそ~言った意味で、単機能アプリが最先端ってのはびみょーに賛成派です。最初単語機能アプリってよんでてなんでーって思ってたけれども。
今後どんな納豆のタレとかTKG専用タレとかが出てくるか楽しみです。

ただそうは言ってもインターフェイスとか次第ではGoogle+とかが巻き返すことも出来ると思うんだよなーーー

と、今まではSNSってこけるイメージしかなかったけど今だったら何かに特化したものとか、「友達とやりたくなる物」であればマイナーであればマイナーであるだけ簡単にコミュニティが絞れて面白いかもしれないw


あー最後もうバテて適当ですいませんw
言いたかったのはスマホの登場で、何でも出来るSNS ってのの意味がなくなってきたって事!sign in with facebook とかも最近多いし!

今までじゃぁなんでいろーーーんなSNSがあったのに広まることがなかったのか?それは3つの理由。全部やろうとしちゃったのとスマホがなかったのとアカウントを作るのがめんどくさかった。Google+が広まる様子に驚いたのは自分だけでは無いはず。それは個人的に、「すでにアカウントを持ってるから」ってのが大きな役割を占めてると思ってる。そゆ意味でパスワードを覚えてくれるスマホ、やsign in with facebookの登場は非常にでかい。

パソコンしか持ってなかった時代とはわけが違う。SNS戦争第二弾始まってもおかしくないぜーー


おまけ

適当にこれを説明するために作った画像だけど微妙に論点ズレてるとおもってのせなかった画像がいろいろ


横軸は closed <-> open の方がいいかなー。完全に個人的見解。
ただそもそもこうであるべきだと思っている




赤が理想的な共有範囲(仮説w)そして仮にトピックの一般的さとかが、何をシェアするかによって定められるものだとすれば何をシェアするかとコミュニティが分かれているfoursquare とかはなかなか面白い。みんなが知っているわけでもないから適当に周りだけとかかわれるかもしれないし。





ただ後シェアするものって何かなー・・・アーティスティックなものとかか。
ただこれを見ると確かにTweet とかPic とかある程度誰に、とかを気にしなくていいのかもなー。ちなみに緑foursquare で青facebook 淡青twitterですw適当ですいません。
今後緑枠のようなものが増えてくるという予想。





読んでいただきありがとうございます^^
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2011/07/30

経験と言う名の授業

インターネットが普及していろーーーんな知識をweb 上から得る事が出来る。

これだけって思われるかもしれないけど、 [KNLog: ME310 を通じて自分なりのまとめ]の中に1年間学んできた事はほとんど書いた。。。と思う。

自分が頑張って得てきたものをこんなに簡単に公開してしまうのはもったいないとか、最先端な事を学んだのに秘密にしておきたい事とか正直若干あるけどでも公開したのはきっと今回のテーマで言いたい事が絡むのだと思う。


今の世の中何かを秘密に心に置いておいたとしても、頑張って調べればここに書いてある内容なんていくらでも手に入るだろうし何かを自分が思いついたとしても大抵の事はもう既にされている。

自分よりも頭のいい人だっているだろうし、文章書く事が上手い人もたくさん居るし、アクセスたくさん集める人もたくさん居るし、情報なんていくらでも転がっている。

そういった意味で情報の格差ってのはまー広がるって見方もあるけれども二極化してしまってる気がするんだ。そして二極化のうちのたくさん情報を得ている人が得る事の出来る情報量って、人と人との間にそこまで差は無いのではないかって思う。

今後インターネットを使わない人は居ないだろうし、そういった意味で情報は何でも転がっているような時代が来る。全ての人が同じ量の情報に、同じ確率でアクセス出来る可能性がある時代がくるんだ。
そしてその膨大な量の情報は google なのかどこなのかはわからないけどそれらの会社によって管理され、より精度よく誰も二届けられる。そしたら・・・今度は何が重要になってくるんだろう?

というか今そもそもこうやって自分が「知識の共有」として書いている事は将来どこかで価値となるのだろうか?

この間ENPC (Paris の大学) と Stanford でそれぞれ同じME310のプロジェクトをとっていた人と飯を食いにいった時に、今度は「経験」ってのが大事になるんだろうなって話になった。

確かになーーー。画面から「経験」を伝える事ってのはどうも出来ない。
たとえば自分が「ボールの蹴り方」をブログで丁寧に1時間くらいで読める長さに書いたとしても、それは実際にサッカーの練習を1時間した人の方がためになっているだろう。

学びて思わざれば、すなわちくらし。思いて学ばざれば、すなわちあやうし。

って孔子の言葉好きなんだよな。自分で考えてるだけじゃだめ!でも本とか読んだり教わったりしてるだけでも自分で考えなかったらだめ!両方しなさい!って意味なはずなんだけれども(間違ってたらごめんなさい)更にそこに経験しなきゃだめ!って事を付け足したい。まー孔子の言った「学ぶ」の意味の中に経験の概念も入ってるのかもしれないけど今だからこそいっそう強調して、経験という言葉を入れこみたい。

モノを知っているって事にどれだけ価値があるだろう?あるかもしれないけどそれに価値の重きを置いたらそれこそコンピューターの方が価値が出てきてしまう。何が出来る、に価値があるって訳でもない。その人の得てきた経験、そしてそこから出てきた個人の「考え方」にこそ価値が出てくるのではないか?




なんか話は哲学的になってしまうかもしれない。誰もが自分なりの哲学を持っているけど、それはおそらく経験から来た哲学。それは唯一のモノだし、それを嫌う人も好む人も居るだろう。例えば哲学書を100冊読んで積み上げてきたその人の哲学と、恋愛でもサッカーでも旅でも仕事でも頑張って自分で考えて掴んだものがある人の哲学、どっちが親しみやすいかで言ったら個人的には後者。大抵の人がそうだと思う。

哲学ほど非生産的なものはないかもしれない。俺の知り合いは片思いほど非生産的なものはないと言っていたけれども。
そんなの仕事とかには関係ないよーってなるかもしれない。

でも個人的な考えでは・・・人間の周りにはどこまで言っても人間が居て、何をしていても最後には人の考え方がモノを言う。何をしていてもどこに居ても、自分の行う事には「プロセス」が存在し、そのプロセスに当てはめられる「公式」は年々多様化していく。
だったら公式を何かから覚えるよりも、自分の哲学から「自分なりの公式」を毎回導きだせる事が今後必要となってくるのではないか??

彼女が出来るとこんなにいいんだぜーって誰かに言われるよりも、自分で体験した方が楽しいし分かりやすい。

デザインシンキングって何?って人に聞くよりも自分で体験した方が良い。

そこから導きだされる答えが人と同じとは限らない。でもそれを個人として大切に育てていく事、それを他人とぶつけ合って少しずつ変えていく事が人としての成長なのだと思う。


この記事もそう。形にしてしまう時点でおそらく他人にそこまでは伝わらない。同じような考えをもった人には伝わるかもしれないけども人の考えなんて100%伝える事は不可能だ。
それにこうやって考えている人は世の中にいくらでも居る。それを表現している人もいくらでも居る。だから「このブログも他の記事と同じようなこと言っているよ」って思う人もいると思う。ただそれでもいいんだ。この記事は誰かが言っていた事ではなく、自分の経験が導きだした、自分なりの答え。(とは言え友達との話の中からinspire されたのだけれどもw)この「答え」ってもっと丸く言えば自分なりの考え方。人と話してどんどんその形は変わっていくと思う。

でもこうやって何かの経験から何かを感じ取る、それに喜びを感じられるような生き方で居ようと思う。

そういった意味で「知識」や「スキル」以上に「経験」をくれたME310のプロジェクトには本当に感謝している。

経験を得る上で大事なのはおそらく「環境」。人生の中で自分ほど「環境」に恵まれている人は居ないんじゃないかってくらい自分は環境に恵まれていると思う。親もそうだし友達もそうだし学校もそうだし留学とかもそうだし。
今度は自分自身がそのような環境を作れる人として存在していきたいと思う。


なんだこの意思表明ブログw すいません。

留学とか旅行とかに限らず、「環境の提供」ってvision を持った会社ってのも大成するかもなーなんて思ったり・・・

(この記事は [KNLog: ME310 を通じて自分なりのまとめ] の中の1記事です)

読んでいただきありがとうございます^^
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2011/07/26

Catch me if you can, I am a Computer

最近ずっとME310のネタばかり書いていたのでちょっと変えてみる。


タイトルはパクリです。すいません

インターネットが世に広まってきて15年以上。
昔インターネットが出てきた時の事は何となく覚えている。

その当時8歳前後だった私も、Windows 95 とかそこら編の名前を聞くと懐かしいと思える。
じぶんが初めて使ったパソコンは覚えてないけれども、自分の家でWindows me がを使った時の感動は鮮明に・・・と言いたいところだが、なんとなく、覚えている。

もちろんそれ以前にそんなハイテク機械など家にはなかった訳で。自分になじみのあるディスプレイはテレビのみであり、機械といったらスーパーファミコンであった。そんな私に、パソコンというのは明らかに異次元への入り口であった。


共感する人も居るかもしれない。
昔、パソコンは何が出来るの?と聞かれたらすぐさま「インターネット」と答えた
インターネットってなに?と聞かれたら、あの青いe のマークに輪っかのついたようなあのInternet Explorer のアイコンの事だと思っていた。
そしてそれは同時に、Yahoo から始まるものだと思い込んでいた。


というよりも
パソコン=インターネット= yahooのトップ画面
であると思っていたといっても過言ではない。たまにゲームも出来るくらいだ。ただそれも、インターネットのおまけくらいにしか思っていなかった。
IE のアップデートとかをしてしまった暁にブラウザを開いてもyahooのトップ画面が出てこなかった日には、それはもはやインターネットでなくなってしまったかと思うほどだ。


いつ頃からトップページとしてgoogle を使いだし、レポートとしてword を使い、計算にexcel を使いだしたのかはわからない。いつから、パソコンは「インターネット」でなく、「なんでもbox」になったのかは分からない。
ただこれは明らかな前進である。この一見単純なようで大きな前進はとてつもないvision の変化である。なぜか?



私の名前はKenji である。
私はMichael でもある。
そして Robert でもある。



とまぁなんとなく3つの名前を書いてみた。
何言ってんだこいつ?と思った人も多いだろう。
もちろん私の名前はKenji だけだ。ただ先に述べた大きな前進とは、私にこの3つの名前、もしくはそれ以上があると本当に信じ込む事と同じなのである。

どういうことか?
今我々はパソコンを通じて、もちろんインターネットを通じてで色んなものを経験している。いろいろな情報にアクセスし、いろいろな操作を行っている。
ただ考えてほしい。パソコンがなかった時代の事を。
家には何があっただろうか?

寝るための布団
遠隔地と通信するための電話
明かりをつけるための電気
紙を送るためのFax
風邪を送るための扇風機
室温を調節するためのエアコン
時間を見るための時計

これらすべてがひとつの目的のために、ひとつのものが存在している。
つまりひとつの目的に応じてハードもひとつ存在する事が当然であったのだ。

まるで人間の名前のように。

ただパソコンはどうか?

Facebook を使い、Twitter を使い、ブログを使い、google を使い、word, excel, illustrator, photoshop, power point, keynote, .... 数えきれないほどのアプリケーションをひとつのパソコンという中で用いている。

携帯電話でも電話をし、メールをし、ゲームをし、・・・さまざまな事をしている。



それは実はインターフェイスを語る上ではとんでもない進歩なのではないかと勝手に思っている。

パソコンをひとつのインターフェイスとして考えると、パソコンはまさに何でもインターフェイス。


さっきの例でいえば、誰もがなにを疑う事もなく私の名前をKenji でありMichael でありRobert であると信じ込み、状況に応じて名前を呼び分け使っているようなもの。なんか恐ろしい進歩だなーって勝手に思ってしまったと同時に、それを我々や現代の子供は当然のように受け入れている事にも人間としての進化を感じる。
ただ一方でまだ パソコン=インターネット=Yahoo の様に思っている人も居るのではないかと思ってしまう。ひとつのハードに、ひとつのファンクション、のように


全てをひとつにつぎ込んできた時代から、どっちかというと今その逆の流れも出てきている。

例えば石井先生の提案するタンジブルの概念。

触れる情報、のようなイメージだけれどもこれは情報に触るためのファンクションを出来る限り直感的に、触れるものとして作っていこうというインターフェイス。

この方が「わかりやすい」とか「あつかいやすい」と思う事が多いのは動物としての本性として「1個のモノに1個の機能」の方が扱いやすいからか、「何でもインターフェイス」にしたが故に全てに対応する事が出来ていないからか分からないけど、今後もう少しまた「1個のモノに1個の機能」の方に流れが行くと思うんだよな。


俺ひとつの名前だけで十分だもん。

2011/05/08

Twitter という名の新しき、そして恐ろしきコミュニケーションツール

技術が発展して、いろーーーーんな事が可能になってる。なんでも検索することが出来て、なんでも便利に行える。

最近Twitter やFacebookなど、日常的にコンピュータの中での内容を友達と話すことも多くなった。

ある知人にTwitterはリアルな生活で言うとなににあたるものなんだろうね、という疑問をなげかけられた。
E-mail: 手紙
Blog: 記事
Twitter: ?

はて・・・一体なんだろう?
俺は「独り言でない一人言」と応えた。
直感で言ったけど、ホントにそうなのかなーなんてちょくちょく考えてた。今日のブログではその考えた結果をまとめてみようと思う。  個人的にTwitterが他のコミュニケーションツールと違うのは「時間軸」と「中心的」。

まず一つ目の「時間軸」について

結構「言葉」ってのが好きで、昔調べたことがある。
ある本には、

言葉の目的は情報伝えるためであり、その手段はいくらでもあった。匂いを出す、色を変える、動きで表す・・・などなど
ただ人間はその中から「音」を選んだ。このチョイスがまたなかなか良い選択。体力的にも、コミュニケーションの速さからしても。例えば匂いで情報を伝達する場合には一度匂いを出したら次の事象を伝えるためには場所を変えないといけないとか、いろいろ弊害が生じる。

てなことが書いてあったな。。。


そこでなんとなくおもった。このメリットは、なんとなくデメリットでもあると。。。
「愛してる」と人に伝えても、その言葉は残ることなく虚しく消えて行く。それを保存したいと思った誰かが「文字」を発明し、本や何かに「残す」方法を思いついた。(わからんけど多分文字のほうが言葉より後だよね?笑)さらには発展して「録音」という方法すら創りだした。

また言葉って言う「有限な材料」を用いて感情という(個人的な考えでは)「無限」に存在する概念を表現する際に、失われた情報というものが出てくる。言葉では表現できないそれらの空白を補うために人はそれをリズムにのせ、体を動かし、絵を描いて表現した。・・・・と自分が思っているのは今回はあんま関係ない。

でもでもそうやって情報の伝達方法ってのは 進化してきたんだと思うんだ。完全に個人の予想から入ってるけど。。。より正確に、自分の情報を伝えたい、より良いコミュニケーションがしたい、と

さっき「時間軸」が他のそれと違う、といったのは、ここから来てる。言葉が一瞬で消えるのに対して、本や絵は一生残る。じゃぁツイッターは?
ある意味電子化されているから、一生残る、けど明らかに下に埋もれたツイートを掘り下げる人なんていないし、それを誰もが分かっているから、「保存用」の発言はめったにしない。だからプライベートみたいな感じになるし、より親近感のある内容になる。ある意味、口から発する言葉と書き留める文字の中間ようなものだ。。。そしてその特徴はチャットとかにも顕著に見える。ただチャットと違うのは次の項目の「中心的」という概念

「中心的」
正直「時間軸」 と語呂というかリズムを合わせるためにこの言葉を使いました。。。。すんません
1番大きい意味は「自己中心的」の中心的
会話をする際に、他人のことを考えてない人なんてまずいない・・・はず笑 特に日本人


・・・・・ストレスのある社会ですよね、今の世の中 笑

いろーーんな人に気を使って・・・誰もが一回くらい「自分の好きなことやって楽しめてる人っていいなー」って思っている気がするんだ。。。Twitterはある意味発言を自分の好きにさせてくれる機会を提供してくれている・・・

愚痴って程でもないけど、Twitterの面白いところはなんでも言っていいところ。。。たとえばmixiとか、一応友達を意識する。。。もちろんtwitterもモラル的なところは意識しなきゃいけないのかもだけど「時間軸」でも言ったように、あんまり体裁を整えてつぶやかなくて良い。まーフォロワーが増えるに連れおっぱいーとか発言できなくなったのは事実だけど笑 

んで自分の好きにつぶやいたことで、誰かが返事をくれたりする。ある意味、全然気を使わないコミュニケーションになっている気がするんだ。。。それが「自己中心的」の意味。
あえて「自己」を付けなかったのは語呂以外の理由に、@を付けてつぶやくと、その人を中心に出来るからって感じでする笑

多分最もわかり易い例が「金欲しー」とか「デートしてー」とか言うつぶやき。。。そんなにそゆこと言う人はいないと思うし自分も後者しかつぶやいたことないけど、 そんな事でも言えるのがTwitterのいいところ。。。たとえばだれかふたりきりの時にこんな事言った日にはたちまち勘違いされる。。。けど、拾いたいひとだけ拾ってってね、って感じのスタンスがツイッターにはある・・・

寂しがりにはもってこいのツールだよなーーー。。。かまってーって実生活では言えないけど、つぶやけば構ってもらえるし。。。

今まで自己中心的に言葉を発信する機会は、なんかアーティストとかジャーナリストとかにしか与えられていなかった気がするんだ。Twitter によってそれがみんなにも与えられた感じ。

こっから考えると、一つの仮説が・・・「より多くつぶやく人ほど、実際の生活では自己中心的な発言を出来ていない?」


もしかしたらあり得るかもなーーー笑


まぁこの二つが、個人的なTwitterの特徴。要は「情報の表現の仕方」が新しくて、「情報の伝え方」が一般の人には今まで無い形であった。。。

じゃぁなぜTwitterはそこまで流行ることになったのか?最初に多少技術が発展して、我々の生活は「便利」になった、と言った。けどTwitterが俺らの生活の何を便利にしたのか?

きっと今までの方法では、伝えていなかった情報ってのはたくさんあって、それらはTwitterの発明によって少しは減ったのかもしれない。
もし勝手な 想像をしていいなら、Twitterの画像バージョンや動画バージョン、もしくは音楽とか絵とか、そゆタイプのものもいつの日か流行る気もする。ブログが雑誌記事のように例えられる中で、自分がジャーナリストじゃないと思っても記事を書く人はいくらでもいる。それと同じ。



何万年も前から伝わってきたコミュニケーション方法ではいつしか満足できなくなって、あらたなコミュニケーションのプラットフォームを創りだす。それ自体は悪いことではない。。。でもでも、今回の原子力とかじゃないけど、これは明らかに「生物としてのコミュニケーション能力」をはるかに超えていると思うんだ。。。


まだまだ先は長い。。。けど「今あるもの」に満足をしないで新たなコミュニケーションの場をつくることで人はもっとより良くより深く人のことを簡単に知ることが出来る、自分のことを簡単に表現することができる。。。 でもその豊かなコミュニケーションの場を提供するのは同時に、危険なことだと思うんだ。実際の世界で無理して「寂しいよー」って言わなくても、Twitterとかが助けてくれるんだもん。。。そしたらもしかしたら人は実世界でそゆのに気づいてもらう努力をやめるかもしれない。女の子だって上目遣いしなくなるかもしれない。。。進歩だけど退化する部分もある。奥ゆかしさみたいなそゆのとか、きっと工夫はどんどんなくなる。いままで伝わりにくい何かを伝えるために本を描いていたのが、歌を歌っていたのが、それよりもっと気楽に表現出来るものを見つけてしまったばっかりにそれらを「作品」にすることなく表現しきってしまう。。。


100のインパクトが無い代わりに、1のインパクトを100回続ける感じ。。。

人間の心にもホメオスタシス、恒常性みたいなものがあるって聞いたことがある。悪いことの話とかだけど、すごいやなことがいきなりあったりしても、それは時間と共に薄れていく。。。危険なのは小さくても悪いことがずーーーっと続くこと。心に悪いものがどんどん溜まっていく感じ。

いい方向だとどうなんだろうな。。。

まーmixiとかの過疎化をみても分かるように・・・人は気軽なものを好む。。。たまに見た友達の力作日記もあんま見れなくなる。。。


そんな感じででっかいインパクトはすくなりそうだよね。。。


 そしたら何が起こるか?毎日1のインパクトを得ることが普通になって、今度は2を求めるようになる。一生満足できないだろうなー。。。まーそれはそれでいいのかな・・・


いつしか体の中にコンピュータとか 埋めこむ日が来そうだ :(



まーいいけどな。ただ伝える内容がどんどん増えていって、10とか100とかをコンスタントに伝えることが出来るようになるかもしれない。。。ただそれでもおそらく人が思っていることを100%伝えることは不可能・・・かは分からないけどそうはなってほしくない。。。


月に兎がいるって考えてるほうが楽しい。月に何個クレーターがあるかとか数えてるより。

人が人のことをすべて知ったら、人は知らない何かに興味を示す。そなったらやばそう


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2011/05/04

一人言と独り言の違い

あーーんまり、、、、、このトピックに突っ込んでいるひとっていなかったんだよなぁ


一人と独りの違いってな大きなもので・・・多分そこら辺について考えているひとってたくさんいるよな・・・


ただあんまり独り言と一人言についてあんまり書いてる人ってきっとあんまりいないと思うんだ・・・個人的な定義

一人言: 自分で自分に向かって言うんだけど、誰かに拾ってもらえたら拾ってもらおーって感じの言葉


独り言: ホントに誰もいなくても、自分で誰かとシェアするためでなく言ってしまう言葉。「くそー」とかがいい例かなー。。。


ただいただきますって一人でいても言うことあるよなぁ・・・
それはどっちにも含まれている気がする。自分の的に。
なんか別に宗教とかはないけど、何かに感謝の気持ちを伝えてる気がするんだ。。。それを言うことによって。



一人言のいい例が、Twitterとか・・・多分結構いると思うけど、人に聞こえるように「つかれたー」とか言う人とか・・・
その形のコミュニケーションて、ツイッター以前には着目されていなかったんだよなー。


一人言を言う時のコミュニケーションの形って、どんな感じのものなんだろうなー。
シカトしてもいいよ、適当に拾える人拾ってねってやつか。。。それがどうコミュニケーションを enhance するかとか考えるのっておもしろそうだな・・・・
初見の人にTwitterを使わせるのとface to face で話させるのと・・・とかとか・・・

一人ごとを拾ったときの話しの広がり用と、普通に話したときの広がりようの違い、
もつ印象、気まずさ、とかそゆのは研究のネタにすらなりそうだなーー笑


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2010/12/31

フォルダ分けと記憶方法

パソコンの中のフォルダ分け


俺は出来る限り書類系を俺なりにうまくまとめようとする


このフォルダの中にこのフォルダを作って、これはこのフォルダに入れる、とか


エイリアスを作ってこのフォルダをここにもリンクさせる、とか



だからデスクトップには日記と一時避難用のフォルダしか常に無い状態になってる


USBの中とかもそうかな・・・

研究室とかでどうやってフォルダ分けするかとかの話になったけど、


友達はいったん全部デスクトップに分けるって言ってた



なんかそれって、理系脳と文系脳の違いかなーなんて思ったりw


俺は典型的な理系タイプだと思う。


どれがどこにある、とか整理していれないとすぐ忘れてしまうし、体系化しないと気持ち悪い。


文系の人は、すべての情報を一様に覚えられるイメージ。



よくわからんけどなー

そんなこと前考えたなー

2010/12/29

時間の流れ なんで時間の長さは違うのだろう

こんな記事があった

時間についてのお話。

時に科学は、自分たちが直感的に考える内容を否定が出来ないまでに綺麗に証明したりする

俺も昔こんな事を考えていた ・・・らしい

KNLog: 三寒四温の中で書いた事の話なんだけど・・・

---以下引用---

最近時計について考えた



時計の持つ1秒は、どれほどの価値を持つんだろうね


おそらくその答えは無限大


時が同じリズムで刻むとだれが決めただろう


時間を管理するために作られた(っぽい)時計が逆に俺らを管理して、1秒という価値を無に等しくする


そんなんじゃない、人生てな

俺の1秒は、俺が決める


俺の10年も、俺が決める


10年のうちにどれだけ走れるだろう?

違うんだよなー

走った距離が10年なんだよね

時を1秒と決めてしまったから、その他の物に他の単位を付けなきゃいけなくなった

そんな気がする

わけわかんね!


---以上---

うーーん。まぁよくわからないけどなー。俺の言ってた事も、参照したサイトで言っていた事も。


ただ時間ってのは人それぞれに独自に備わってる。それには賛成だ。


ゾウの時間 ネズミの時間とかそんな本もあったよなー

でもでも無理矢理時計なんてつくっちゃって、それが絶対だと思ってしまうから

地球が生まれる前は何があったんだーとか勝手に想像したりするのかなw


時間ってのは自分に帰属する


なんだっけなー。カントかだれかがそんな事言ってたなーーー



むず。



用はそんな事考える暇があったら今を楽しもうってことか!

2010/12/11

宗教と国 宗教に属するとなにが違うのか

俺は宗教は持って無い


ただ海外に来ると、いろんな人がいろんな宗教をもってて、宗教の話になったりする。


正直宗教を持つって(そもそも持つって 言うのか?w信仰?)どういう感覚なのだろう?


お金を払ったり、実態の無いものを崇めたり、正直自分では理解出来ないと思ってた。

というか理解出来ないと思う。けどこないだ何となく思った事がある。


宗教って、出身国みたいなものなんじゃないかなぁって


たとえば俺は日本人で、日本のしきたりをいろいろ気にしたりする。


正直日本がいい国だと思うし、国民として日本を誇りに思ってる。


天皇とかもちゃんとリスペクトする・・・なんもしてないけど、リスペクとはしてる・・・


それと宗教って同じようなものなのかな?


宗教で分からなかった事の一つに、なんで自分の宗教がベストだと思うのなら、ほかの人に勧めたりほかの宗教を変だと思わないんだろうとかがあった・・・

ただでもそれってほかの国に住んでいる人が自分の国が一番いいって言ってるようなもんなんだろうなって感じなのかもーって思った。


うまく言えないんだけどなぁ・・・物理的な世界が国だとして、精神的な?世界というか目に見えない国みたいな感じ。

そう考えたら、そのうち旅行みたいなの出来るのかなとか思ったりしたけど、さすがにそれはないだろうなー

2010/07/06

笑顔

昨日の認知科学系の授業の中で、
「人の脳」とか「学習」について触れた



その中で、人の認知プロセスを数学的に(?)表したり、
再現するための試行錯誤を紹介してもらったんだけど 、
そのときの印象的な部分


人には誰からも教わらないで学ぶものがある



それは「表情」



目が先天的に見えない人も、笑顔になれるし、怒った顔にもなれる


なんか素敵だ。




言葉を超えて誰とでもコミュニケーションをとる一つの手段は、


表情なのかもなぁ・・・




表情はアウトプット?相手のインプットになりうるのかな・・




それと、悲しいから泣くってのと同じく、泣くから悲しいって方向も働くらしい。




確かに子供は痛みを感じようが感じなかろうが、泣き出したら止まらないしな・・



でも、だからこそ、笑顔が世界を明るくしそう。





笑えばきっと楽しくなる!

2010/06/29

自分の世界の宝物

さっきの ブログ内容←これね に関連して、むかーし書いた日記を公開しておこう



俺はいろんなこと考えるのが好きなんです。考えて、学んで、自己満で終わるのかもだけどいろんなこと考えるのはほんと楽しい

言葉ってすごいよね。世界を作っています。でも現存する言葉以上に俺たちは感情を持っているから、人は感情を詩に載せたり歌に載せたりリズムに合わせて体で表現したり・・さまざまな表現の仕方をするんだろうな


神経心理学という授業で、人は見えないものも見ている、というようなことをやった。それは何らかの障害で視野の半分を失った人とか、半分に対して 注意を向けることができない人の話なんだけど・・・その人たちは視野の見えない部分にある情報を、なぜか取得している事があった・・・きっと俺らにもそういうのはあるんだろうな。友情とか愛情とか魂とか命とか、目に見えないものだけどそ こにあるってなんとなくだけど感じるもの、もしかしたらお化けとかもだけど、きっと目に見えないだけでそこにしっかり存在しているんじゃないかって。赤い 糸なんておしゃれな発想、あながち嘘じゃないのかな。

空間とは何かものが存在しうる場所。時間とは何か目に見えないものが存在しうる場所。こんなこと考えてたら哲学者カントも同じようなこと言って た。時間の絶対量はゼロである、って。ようは、時間なんてないってことかな。じゃあ今とは?人は今と昔を確かに感じながら生活してるけど・・・時間を作り 出しているのは自分、世界がどこから来たかとか時間はいつから始まったのかとか、あくまで一つの解釈だけど、時間も空間も、自分が作り出したもの。なかな か思い通りにいかない世の中だけど、それは全部自分のもの。自分にしか変えられないし誰に見せることもできない。世界は自分で歩いて行くしかないんだ。

でも・・・自分の世界だけど、たまに人が入ってくるよね。君の世界はこうなんだ、俺のと似てるね。大変だけど頑張ろうね。とか、君の世界は素敵だ ね、私のはどう?とか・・・世界にいるのが自分一人じゃない時、一緒に分かってくれる人が居たってわかったとき、人は一つの宝物を得る。

形が見えなくても、自分たちはその存在を認識していて、その宝物のありがたみを感じます。でも、もしその形が見えたら、触れられたら、それほどう れしいことはないんじゃないかな。だから、好きな人には好きって、大事な人にはありがとうって、素直に言えることは大事だよね。それはきっとその人の宝物

2010/04/01

三寒四温

俺が小学校1年の時先生に教えてもらったと思われる四字熟語



3日寒い日が続き、4日暖かい日が来る。そうやって春が来るのだと




最近ずっと寒いケドw



春は・・・好きかな



なんとなく晴れる日が多いきがするからさ



ところで・・・・・卒業式が終わって、大学生生活も終りをつげました^^



4年生は楽しかった



汗のでない努力は得意ではなかったけど、それなりに頑張ったべ



成功の喜びの半分はその過程にある、だっけな



でもこれから社会に出る人は結果がすべての世界が多いよね


難しいところだ><



3月は、いろんな人と会いました



もちろんあえなかった人も多いけど、それなりに会えた



これからね、そんなに会えなくなるしね



社会人になる方々、みんな頑張ってください




おそらく社会人デビューのみんなはもう寝ていて、目覚まし3個くらいかけて、



この日記を見るのは帰ってきてからになるのだという勝手な読み!




というワケでお疲れ!




1週間くらいしたら日記書いてね!



俺は、同じ学校の大学院に進みます。




聞いた話によると、今年の就職は氷河期を迎えているらしい。



そして来年、俺らの頃は暗黒期らしいw




しらん、そんなこと



まぁ人にペース乱されるような人ではないから


てきとーに就活に挑みます



大人になりたくないな





ずーーーーーっと前から言ってる。

その時は、1〜2年先はもう大人だと思ってた。



でもまだまだだねw


まぁいきなりドカンとは変わらんのかな・・・・



ゆっくりゆっくり



支離滅裂とはこのことか






まぁいいべ




俺の会話ってこんな感じだ





大学生活の最後、卒論のことに触れときます。


一生懸命頑張って、

喜び合い

笑い合い

腹をたて

悩み

脱線しつつも語り合い

ムダにテンションを上げ下げして


そして女性に幻想を抱きながら


研究に打ち込みました



研究の内容は、まぁよく解らんことです


みんながイメージするより理系っぽい感じではないかもだけど

それなりに頑張りました


卒論が出来上がって最後の印刷をしている時は


うれしいような、さみしいような、そんな感じ


少し感慨深い春の訪れ


捉え方によっては1年・・・でも実際に形を考えて研究してからはたかだか5〜6ヶ月間・・・・・でも、されど、5ヶ月

それまでのすべての研究内容を、文字にし、絵にし、ロジカルに組み立てる


想像しているよりも難しく、想像していたよりもやりがいはあった。


最後の10分のプレゼン


すべての思いをその中に込めた・・・・・ってほどカッコいいものでもないw ふつーにそれとなくこなした



頑張って努力して、勝負して乗り越えて、「やり遂げた」瞬間の喜びは何物にも代え難い。だがその瞬間に次の一歩を踏み出すべき足は、ぬかるみにはまっていたりする。(井上雄彦)


社会人てこれとかよりもっとつらいんだろーなってのが俺のひとつの支えだった





世の中にはわからんことがいっぱいだ><








進んでるのか、戻っているのか、









三歩歩いて二歩下がる


そんな感じか




俺も春も変わらんな










ここから俺もわけわからなくなるんだけど、






最近時計について考えた








時計の持つ1秒は、どれほどの価値を持つんだろうね






おそらくその答えは無限大





時が同じリズムで刻むとだれが決めただろう




時間を管理するために作られた(っぽい)時計が逆に俺らを管理して、1秒という価値を無に等しくする



そんなんじゃない、人生てな




俺の1秒は、俺が決める



俺の10年も、俺が決める










10年のうちにどれだけ走れるだろう?




違うんだよなー


走った距離が10年なんだよね



時を1秒と決めてしまったから、その他の物に他の単位を付けなきゃいけなくなった



そんな気がする



わけわかんね!



とちゅーだけどいーや、もう眠い




おやすみ!

2009/10/19

速度0の前進

これもむかーーしmixiに載せた記事。3年前くらいのなので若干きもいのは許してください

ちょっと見切り発車的な日記で、今の時点で終わりが見えないけど、言えることはほとんどの人にとって無意味な日記であり、何の面白味もない日記であることです。語るだけで実際レポート用紙にでも書いとけって感じの話だと思うけど、でもきっと誰か一人や二人には意味があるんじゃないかって思うんでみくしーに書いときます。よほどの暇人とお人好し以外は読まない方がいいかも笑

なんか今月はめまぐるしい勢いで自分に変化が起きてる。新しいバイトを始めたり、明治のサッカーサークルに顔出してみたり、小学校の頃の友達に会ったり、現在奨学金もらってる団体の奨学生からなるパーティーみたいの出席したりと。なんかいろんな人に出会ったよ。大学生活で出会った人とおんなじくらいの人数の人と今月あってるかも、くらい。一期一会だな。なんか正直めっちゃ忙しい。今月の俺はスーパーだぜ。cfふらんきー笑

今までは・・・正直時間が有り余ってて、俺のこと誘ったりしてくれた人はわかると思うけど、どんな時間でもどんな日でも遊び行ったり飯食ったりできてたと思う。いろんなこと考える時間がありすぎて、めっちゃいろんなこと考えたりした。考えては悩んで、悩んでは落ち込んで、自分が自分じゃなくなったみたいで大事な人を傷つけたりもした。もしくは考えて学び、学んでは広がり、人の考えとかそういったものをたくさん拾い集めて学んだりもした。でも結局進むべき足はぬかるみにはまっていて、その場から一歩も動いていないと、自分で解っていた。

現実逃避のためなのか一歩を踏み出すためかはわからないけど、サッカーが全部を変えてくれる気がした。正直高校までの生活におけるサッカーの比重があまりにも多かったから、やっぱそれをやらない自分がすっからかんに思えたからかもしれない。まぁ一番の理由はただ単にサッカーが好きだからだけどね。バイトも始めた。忙しくすれば、悩むことなんてないだろうと思ったから。

いざ忙しくなってみると・・・また今度は違うことを考え始める。忙しくない時間の重要性だ。忙しかったり辛かったり、そういうのを乗り越える力はきっと今までの人生の中で培ってきたけど、今度は何も考えない自分に空虚感を覚えた。(忙しいって漢字は心を亡くすと書くけど漢字はよく出来てるな)考えなきゃいけない事柄はたくさんあるのに、今自分はそれを考えていない。みたいな。

大事なものは無くして気付くってよく言うけど、俺のはそうじゃない。後悔みたいのがないんだ。後悔じゃなくて、自分のぬかるみにはまっていた時間も、決して無駄ではなかった、という喜び的な感じ。止まっていなかったら進むことの大事さに気付けなかったし、進んでばかり居たら、周りの景色は見れなかった。無駄なことなど、この世には無いんだって気付く。

木曜に二年ぶりにサッカーをした時もそう。全然できないだろうなって思ってたけど、自分が想像しているよりもはるかに出来た。体が覚えてる感じ。もちろんもっとやればいくらでもボロは出るだろうけど、とりあえず無失点で、いい活躍もできた。これからは高校時代の自分まで戻す、というよりはここからまた向上してこうと思う。中学高校時代、チームの結果はよそに、俺自身結果はそこまで出せなかったけど、あの日頑張ってたことは、しっかり無駄にならずに身についてるんだなって思った。

俺の好きなマンガの名台詞が妙にしっくりくる。
『今居る場所がどんなにつまらない場所であろうと、自分の道であることには変わりは無い。自分のゴールにどうやってつながるのかはわからないけど、いつかつながることはたしか。』
野宮かっこよすぎ笑

剛がなければ柔もないし、不幸がなければ幸もない。人はきっといろんな人と分かり合えるように、いろんな気持ちを経験する。それらの経験はきっと見えない速度で、自分を前に進めている。

考える時間と、何かをやったり人と会う時間、バランスよくやってこうと思います。

読んでいただきありがとうございます^^
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