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2012/03/21

イノベーション始めました。(と言いたい) 〜イノベーションの始め方〜


どっちかっていうと忘備録です。友人と話していて自分はこんな事がやりたいのかなーと思ったことがあったので書き留めておきます。どのようにイノベーションや新しいこととふれあいたいか、という記述です。共感してくれる人がいると嬉しいです。



考えたきっかけは以前友人がアメリカに行ったときに聞いた、という一言でした。

"日本は売り方が下手すぎる。あんなに良い物やすごい技術を持っていながら、売る事が下手だから世界をリードできないんだ。"

2012/03/16

1年経った今、被災地を訪ねてみた。



行ったのは福島県南相馬市。
原発20キロ圏内とかの通行規制がかかる中なんとか市役所にたどり着きました。
待ち受けてくれたのは市の役員Fさん。いろいろな話をしてくださいました。


復興のために本当に一生懸命な姿勢が印象的でした。
「みなさんの関心が無くなること、忘れ去られてしまうことは避けたい」
Fさんは何度もおっしゃりました。

実際に復興の為には人材もお金も足りない。けど一番必要なのは綺麗事でない「応援する気持ち」なのかな。と思いました。現地に来て何かを食べて帰るだけでもいい、それが力になる、とも言っていました。
実際に仕事をなくした人々は義援金などをもらって、パチンコなどに行ってしまっているのも事実。綺麗な事ばかりではない。だからこそ皆が福島を頑張って立て直すんだ、という気持ちを持ってもらうことが重要なんだと思う。

自分たちが思っていた以上に復興のために頑張っている人々は動いているのだという印象を受けました。下は実際に市役所に置いてあった写真です。

2011/12/30

Beyond Usability とは言うけれど


Usability と UX

今UX に関する論文などをあさっていて、いろーんな論文を読んでる。とはいうものの最近就活であんまり読んでいないけど。



UX、つまりユーザーエクスペリエンスを Beyond Usability と位置づける人が居る。
Marc Hassenzahl, Noam Tractinsky(2006) とかはむしろBeyond instrumental という要素について言及しているだけだけども。

2011/11/10

選択肢と意思決定 個数による判断の違い


昨日のゼミで出た話が個人的には面白かったのでまとめ


ゼミで出た話をあげると
  • なんらかの障害があってemotion を表現できない人は「今日の昼何食べたい?」という質問に応えることが出来ないらしい。
  • そこに5つ以上の選択肢がある場合、人はrational、つまり合理的 に考えるとその人にとって良い選択を出来ない場合が多い。そういう場合は直感的、もしくは感情にしたがって決めるべし。
  • 5つ以内であればrational に考えたほうが良いdecision が出来るっぽい。
こんな感じ。

そんな中で自分は優柔不断な人もじゃぁemotion を表現できないのかな?っていうことを考えた。ただそれは何に重点を置くかで変わるんじゃないかという話になった。
例えば5人くらいでご飯食べに行く際、どこ行きたいー?ってなったら俺は決められないw どこでもいいよってなってしまう。それは食べ物を選ぶ、よりも周りとの調和を大事にしてしまうからだ。的な話をもらった。

俺は自分自身がそれだから、そういう人はめんどくさい人だと思われていると思ってたけど、そう言われるとなんかいい人みたいだよなw まーでも毎回それだとめんどいんだろうw 気をつけよっと。

ここからは適当に自分の考えも踏まえて・・・

直感的に意思決定している例は、ご飯が上手く表していると思う。絶対に合理的には考えない。せいぜいこの間〇〇は食べたから・・・位だと思う。そしてなんとなく自分で食べたい物ってのは自分で分かってる。なんで?って聞いてもなんとなく、位にしか答えが浮かばない。

どこから5って言う数字が出てきたのか分からないけども、確かに現在どこに行っても我々は非常に沢山の選択肢を抱えている。そんな中ではおそらく直感に従うことも大事なんだろう。

ただそうでないというケースもある気もする・・・むかーしなんかの課題でやったオセロとかの話・・・例えばオセロとかもいろーーーんな選択肢がある。将棋とかだと更に増えるのかな。。。なんか将棋とかをしている人が合理的に考えてないとは考えられないので、合理的な場合が良い時もあるんだろう・・・・分からないけども。。。。

ただ例えばもっとシンプルに商品を購入するときとかには、合理的に考えるとeliminate (除外?)されてしまう部分が本来自分たちにとって重要なものであったりする・・・かもしれない

ただ自分の意思決定に自信を持つためには何かしらの後付の理由も欲しいよな。。。
それがブランドであったりもするのかもしれない。ほう。

ちょっとメモがてらシンプルなポストになってしまったけども。。。

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2011/09/27

User As A Co-Designer | デザイナーとしてのユーザ

今日のタイトルは
User As A Co-Designer | デザイナーとしてのユーザ

下の写真を見てください




 幼稚園入園のママ必見 上履きの裏技 ってとこから勝手に引用してしまいました。。。
個人的には「これぞデザイナー」って感じの一品。
この輪っかは子供の指が入るように設計。子どもが靴をはくときに 簡単にかかとの部分を引き上げることが出来るようにしたもの。。。素敵ですね。これで誰の上履きかもすぐ分かるようになるし女の子ならリボンをつけたりして可愛くしてもいいし。。。なんかいろんな発想が出てきそうです。

そう。ユーザは時に誰よりもユーザのことを理解しているデザイナーなのですよね。もちろんただ受け入れ、理解していないこともあるはずですが・・・そんな時はデザイナーが単に切り口を与えるだけで、簡単に理解は深まるはずです。

デザインとはEmpathetic だと誰かが言っていました。同調とか、思いやりとかが近いのかな。

私自身ビジネス経験など微塵もないけども・・・
文献とか見た人と話していてなんとなくこんな感じかなって思って図書いてみました。

なにを表した図かも分からない・・・

いろんな立場から見れる、世の中の流れ?




Empathetic はユーザとデザイナーとの間に生まれるものであり
Experience はプロダクト・サービスとユーザーとの間に生まれるものであり

次のImplement はこじつけだけれども・・笑 なにかE から始まる何かが欲しかったw



Design
とはUser とDesigner の中のEmpathetic によって生まれるものであり

Display ってのはその商品をどうユーザに見せるか。商品とデザイナー(会社?)によってその見せ方の戦略などは如何様にも変わってくる。
その商品の強みを押し出すのか値段を押し出すのか、そしてユーザは何を受け取るか。
美しさかかっこ良さか・・・などなど


Measure 測定、問題点の発見
はそのExperience を見ることによるものでありそれがDesigner の理解を深めさせ新たなユーザ理解につながる


ただEmpathetic はUnderstanding の方が良いのかもしれない。マーケティング的な要素を含むという意味を多少深めて。。。こゆことかな








適当だけどなー。。。なんかこんな事考えていました。
競合とかクライアントとかそゆのが入って来ればいくらでも変わるんだろうけどなーー


デザインてのはデザイナーのものでは無いのですよ。そんな私の意見

デザインに興味があったら
ME310
のとこにある記事も読んでください

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2011/09/06

被災地で聞いた話



スコップ団さんの活動に先日参加してきました。被災地の復興をいち早く願いそれに向けて活動する方々です。
日帰りで行ったので実質参加出来た時間は4時間くらい。だから今日書くのはボランティア大変だったーとかそゆ本気で毎日やっている人に対して失礼な事ではなく、その現場にいた一人の女性から聞いた話。

あ、ちなみに活動の参加については、正直足手まといになってしまうのではないかと心配ではあったけども、自分たちでも役に立てているな、と実感出来るほど人手が必要な作業だった。自分は4時間でもつかれたーってなってしまうくらいへたれていたのに、団長さんとかはそれを倍以上、しかも毎週のようにやっているとなると本当に大変だろうな、と頭が下がる。

友達に誘われて言ってきたのだけれども、本当に行って良かった。また行こうと思う。







本日書くのは休憩の際に話した一人の女性との10分程度の会話の内容。何となくこれは書き留めておきたいと思ったので書かせていただきます。

その方はその被災地の隣町出身で今は横浜のほうで働いている。でも毎週のように夜行バスに乗って土曜日から参加し、日曜日の夜行で帰って月曜日から仕事、という事を繰り返しているらしい。(もしかしたら土曜の夜行で日曜だけかもです。でもそのくらいハードに活動に参加していました)たまに新幹線も使うと言っていたけれども。。。



自分が参加した活動内容は、「家を綺麗にする事」だった。津波の被害にあった家の中でモノは破損し、土砂がたまり、内装は崩れ、家としての外観はあるものの人が住むにはほど遠い環境だった。その中から全てモノを撤去する、という事を行った。本当に使った形跡のある生活品、雑誌やノート、DVD、タンス、コップ、皿、湯のみなど突然と襲った津波が、時間を3月のまま止めていた。
それらの活動はもう一度そこに住むことが出来るようにするため。それがそのとき分からなかった自分はその女性に、これはなんの作業か尋ねた。その女性は、やっぱりこの土地で生まれて育った方は、このようになってもここにもう一度住みたいと思う人が多い、という。だからこそもう一回それをするお手伝いをするのだと。この地域では役所的なものがそこまで機能していなくてこういった半年経った今でも何も手を付けられていない所は多いのだという。


だからこそ、このスコップ団さんはこんなにも力強く働いているのだろう。


この地域では地震の際に停電もあったらしい。それによって被害を被った方々も多いそうだ。30年前にもこの土地では大きな地震があったらしく、そこに住むみんなが地震に対しては対策をしていた。しかし情報が届かない中での津波の被害は防ぎようがなかったらしい。

一面を見渡せるような広大で平らな土地。津波も止まる事なくより遠くへ進んでしまっただろうと安易に想像もつく。

その女性の家は大丈夫だったのかと聞くと、被害は家の瓦が壊れ、そして車検?に出した
車が流されてしまった程度だと言う。もちろんこの被害も大きいけども、命があったことは不幸中の幸いであると思う。 流されてしまった程度、というのも失礼な話ではあるのだけれども。

ただ・・・その壊れた瓦を直しにきてくれた職人さんとの話を教えてくれた。その職人さんには娘が居た。そして津波が来た時にその存在も早くに知る事ができ逃げる事も出来たらしい。ただその娘さんは家に寝ていたおじいさんをおいては行けないと引きとどまってしまい今はおじいさんとともに行方が分かっていない。その職人さんがどうやって助かったのかは分からないけども、心の優しい人が助からないなんて悔しい話だね、とその女性は言っていた。

俺の文章じゃうまく言えないなー。でもそれは自分が初めて「被災地」で「被災者の声」を聞いた瞬間だった。



何が出来るか分からない。とりあえず俺に出来るのはこの事実を伝える事と、自分で体を動かす事くらい。


なーんて4時間くらい参加しただけの自分に偉そうなこと書く権利なんてないけど・・・震災はまだ終わっていないんだなって身を以て感じた。

2011/08/26

今後のSNS 〜醤油と納豆のタレ〜 学生の戯言

FoursquareがFacebookに勝利する理由 ソーシャルの最先端は単機能アプリ?

って記事を読んだ。ふふふ。SNSとか大好きな私が今後を占ってみようと思う。

そもそも個人的に、なんでSNSを使いたいか?って質問には答えられなくていいと思ってる。友達と会いたい、友達と話して面白い経験をしたい、彼女が欲しい。それら全部に必ずしも理由がないように、人は「なんとなく」SNS を使うものだと思っている。

そしてSNS のファンクションは「友達との共有」をするものであると定義すると、
どのように「友達」と関わるか
なにを「共有」するか
に分けられる。

ここまでかなり個人的見解。

先の記事はとてもいろんなSNSが上手くまとめられていた。友達との関係性、で言うと大きく分けて3つの友達との関わり方がある。

1. まず一つ目はFacebook, Twitter 型: 知り合い全部を巻き込む感じ
今更FacebookやTwitterの説明は省略


2. もうひとつは Color 型: 説明は後にあるけど近くの人を巻き込む感じ


引用の引用になってしまうけどcolor の説明
例えば結婚式の2次会やパーティなどで写真を撮ると、その会場にいるColorユーザー全員が1つのグループになり、それぞれが撮った写真を全員で見る ことができるわけだ。だれかに自分のカメラを渡して自分の写真を撮ってもらうこともない。だれか が撮った写真は、その場ですぐに自分のスマートフォンに転送されるからだ。

ほかのユーザーとの人間関係の近さは、物理的な近さで認識される。同じパーティ会場でも同じテーブルに座るほどの近い距離のユーザーのほうが「人間関係が近い」と認識するわけだ。

ユーザー自身が自分の「ソーシャル・ネットワーク(友人の輪)」を定義しなくても、スマートフォンが「関係が近い人間」の輪を自然に決めてくれる仕組みになっている。
常識を揺さぶる新アプリ「Color」は、新たな時代を築けるか【湯川】 : TechWave

3. そして最後が Google+ (mixi) 型: 後に説明あるけど自分で誰に公開するか選ぶ感じ。どっちかというとFacebook やTwitter型
何かの計算式を用いて自動的に人間関係を定義するのは無理。それなら人間関係の定義をユーザー自身が簡単にできるようにしたほうがいい。そう考えて設計されたのがGoogle+のサークルという仕組みだろう。


ダイソンによれば、GoogleはFacebookの問題点を理解し、その解消を試みた。Facebookの主要な問題は、すべ ての友達がまとめて一括りにされていることだという。Google+はこの点について、友達を必要に応じて自由に分類してサークルに入れるという方法で解 決した。(エスター・ダイソン、「Google+サークルの非対称性は後発の有利さを生かしたもの」by TechCrunch

これらで着目されているのは「誰に共有するか」

多分みんな思い当たるフシはあると思うけど、自分はSNSって種類によってターゲットにしているコミュニティが違う。
例えばmixi はどっちかというと高校の友だち、twitter はどっちかというと大学の友だち、Facebook は海外の友達というような形で自分は場合分けしている。
ただ最近Facebookやツイッターはよく使うけど、mixi は全然活発でなくなってきた。少しずつFacebookやTwitter に流れてきているのが分かる。

そしてさらに最近は何を共有するか、を含めてSNS のようないわゆるアプリケーションを使い分けている人が居る。例えばFoursquareなりInstgram なり。

ただFacebook だってFoursquare のような機能はあるし、写真を共有するにはどのようなSNS を使っても写真なんて共有することが出来る。それに公開範囲だってgoogle + とかならば何をシェアするか、そして誰にシェアするかってのを全部使い分けることが出来る。うまく使いこなせばだけど。でもそれを使っている人はあまり周りには見受けられない。何故か?

人側のアプローチはもうされているのでUsability などを学んでる身として、インターフェイスの視点にたって考えてみようと思う。


個人的にそれは、今どのように人がSNSを使っているかに関わるのだと思う。
どういう事か?
要はスマホのせいって言いたい。よく自分は「スマホいいなー」と言う。「Twitter いいなー」ではなく。そもそもスマホ上で何を使っていようと、その人が使っているのはFacebookでもFoursquare でもTwitter でも何でもなく、「スマホ」であるのだ。

スマホにあるボタンをひとつ押すだけでアプリケーションを選択することが出来る。例えば場所の共有。Foursquare を用いることに比べるとFacebookで場所を共有するのは一手間多いハズだしシェアする相手がそれを望んでいるかすら分からない。さらに誰に共有するかもFoursquare ユーザーだけに共有できるなど、一つの機能に対して一つのアプリケーション、一つのコミュニティというとても分かりやすい構造になっているのだ。これは人間の本能的なことなのかどうなのか分からないけど、そもそも人間はそういうものに囲まれて生きてきたはず(Catch me if you can, I am a Computer参照)
うーーん。。。あんまり上手く説明できなかったけど以下を見て欲しい
ほとんどの人が知っていると思うけどfacebookのスマホver のインターフェース。これらのアイコンて・・・もちろん違うけど、スマホのトップの画面から見えるアイコンとあんまり変わらないよね?w強引すぎるかもしれないけどw facebookの中の一つのアイコンを選ぶことと、スマホの中の一つのアイコンを選ぶことに対する手間が変わらないのであれば、人はおそらく一手間少なく、そして特化している方を選ぶ。



納豆食べる時に醤油よりも納豆のタレみたいのを好むイメージ。あんま変わらないし、醤油なんていつでも手元にあるけど、ちょっとこっちのほうがそれ専用とか言ってるしこっちつかったほうが得する気がする、的な。納豆もこっちを望んでるんじゃないか、的な。醤油に手を伸ばすよりもこのパックに入ってるヤツのほうが楽に使える、的な。つまりFacebookは醤油で、Foursquare は納豆のタレなのですよ

だからそもそもコミュニティを選ぶ必要がない(Google+とかより楽) し何をシェアするかも選ぶ必要ない(いろいろ楽) そしてなにかしら特化した微妙に面白いFunction がある、だから人はFoursquare を選ぶのだ。なんとなく。こないだ Catch me if you can, I am a Computer の中でも言った言葉を最後に引用

この方が「わかりやすい」とか「あつかいやすい」と思う事が多いのは動物としての本性として「1個のモノに1個の機能」の方が扱いやすいからか、「何でも インターフェイス」にしたが故に全てに対応する事が出来ていないからか分からないけど、今後もう少しまた「1個のモノに1個の機能」の方に流れが行くと思 うんだよな。
まーそ~言った意味で、単機能アプリが最先端ってのはびみょーに賛成派です。最初単語機能アプリってよんでてなんでーって思ってたけれども。
今後どんな納豆のタレとかTKG専用タレとかが出てくるか楽しみです。

ただそうは言ってもインターフェイスとか次第ではGoogle+とかが巻き返すことも出来ると思うんだよなーーー

と、今まではSNSってこけるイメージしかなかったけど今だったら何かに特化したものとか、「友達とやりたくなる物」であればマイナーであればマイナーであるだけ簡単にコミュニティが絞れて面白いかもしれないw


あー最後もうバテて適当ですいませんw
言いたかったのはスマホの登場で、何でも出来るSNS ってのの意味がなくなってきたって事!sign in with facebook とかも最近多いし!

今までじゃぁなんでいろーーーんなSNSがあったのに広まることがなかったのか?それは3つの理由。全部やろうとしちゃったのとスマホがなかったのとアカウントを作るのがめんどくさかった。Google+が広まる様子に驚いたのは自分だけでは無いはず。それは個人的に、「すでにアカウントを持ってるから」ってのが大きな役割を占めてると思ってる。そゆ意味でパスワードを覚えてくれるスマホ、やsign in with facebookの登場は非常にでかい。

パソコンしか持ってなかった時代とはわけが違う。SNS戦争第二弾始まってもおかしくないぜーー


おまけ

適当にこれを説明するために作った画像だけど微妙に論点ズレてるとおもってのせなかった画像がいろいろ


横軸は closed <-> open の方がいいかなー。完全に個人的見解。
ただそもそもこうであるべきだと思っている




赤が理想的な共有範囲(仮説w)そして仮にトピックの一般的さとかが、何をシェアするかによって定められるものだとすれば何をシェアするかとコミュニティが分かれているfoursquare とかはなかなか面白い。みんなが知っているわけでもないから適当に周りだけとかかわれるかもしれないし。





ただ後シェアするものって何かなー・・・アーティスティックなものとかか。
ただこれを見ると確かにTweet とかPic とかある程度誰に、とかを気にしなくていいのかもなー。ちなみに緑foursquare で青facebook 淡青twitterですw適当ですいません。
今後緑枠のようなものが増えてくるという予想。





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2011/07/30

経験と言う名の授業

インターネットが普及していろーーーんな知識をweb 上から得る事が出来る。

これだけって思われるかもしれないけど、 [KNLog: ME310 を通じて自分なりのまとめ]の中に1年間学んできた事はほとんど書いた。。。と思う。

自分が頑張って得てきたものをこんなに簡単に公開してしまうのはもったいないとか、最先端な事を学んだのに秘密にしておきたい事とか正直若干あるけどでも公開したのはきっと今回のテーマで言いたい事が絡むのだと思う。


今の世の中何かを秘密に心に置いておいたとしても、頑張って調べればここに書いてある内容なんていくらでも手に入るだろうし何かを自分が思いついたとしても大抵の事はもう既にされている。

自分よりも頭のいい人だっているだろうし、文章書く事が上手い人もたくさん居るし、アクセスたくさん集める人もたくさん居るし、情報なんていくらでも転がっている。

そういった意味で情報の格差ってのはまー広がるって見方もあるけれども二極化してしまってる気がするんだ。そして二極化のうちのたくさん情報を得ている人が得る事の出来る情報量って、人と人との間にそこまで差は無いのではないかって思う。

今後インターネットを使わない人は居ないだろうし、そういった意味で情報は何でも転がっているような時代が来る。全ての人が同じ量の情報に、同じ確率でアクセス出来る可能性がある時代がくるんだ。
そしてその膨大な量の情報は google なのかどこなのかはわからないけどそれらの会社によって管理され、より精度よく誰も二届けられる。そしたら・・・今度は何が重要になってくるんだろう?

というか今そもそもこうやって自分が「知識の共有」として書いている事は将来どこかで価値となるのだろうか?

この間ENPC (Paris の大学) と Stanford でそれぞれ同じME310のプロジェクトをとっていた人と飯を食いにいった時に、今度は「経験」ってのが大事になるんだろうなって話になった。

確かになーーー。画面から「経験」を伝える事ってのはどうも出来ない。
たとえば自分が「ボールの蹴り方」をブログで丁寧に1時間くらいで読める長さに書いたとしても、それは実際にサッカーの練習を1時間した人の方がためになっているだろう。

学びて思わざれば、すなわちくらし。思いて学ばざれば、すなわちあやうし。

って孔子の言葉好きなんだよな。自分で考えてるだけじゃだめ!でも本とか読んだり教わったりしてるだけでも自分で考えなかったらだめ!両方しなさい!って意味なはずなんだけれども(間違ってたらごめんなさい)更にそこに経験しなきゃだめ!って事を付け足したい。まー孔子の言った「学ぶ」の意味の中に経験の概念も入ってるのかもしれないけど今だからこそいっそう強調して、経験という言葉を入れこみたい。

モノを知っているって事にどれだけ価値があるだろう?あるかもしれないけどそれに価値の重きを置いたらそれこそコンピューターの方が価値が出てきてしまう。何が出来る、に価値があるって訳でもない。その人の得てきた経験、そしてそこから出てきた個人の「考え方」にこそ価値が出てくるのではないか?




なんか話は哲学的になってしまうかもしれない。誰もが自分なりの哲学を持っているけど、それはおそらく経験から来た哲学。それは唯一のモノだし、それを嫌う人も好む人も居るだろう。例えば哲学書を100冊読んで積み上げてきたその人の哲学と、恋愛でもサッカーでも旅でも仕事でも頑張って自分で考えて掴んだものがある人の哲学、どっちが親しみやすいかで言ったら個人的には後者。大抵の人がそうだと思う。

哲学ほど非生産的なものはないかもしれない。俺の知り合いは片思いほど非生産的なものはないと言っていたけれども。
そんなの仕事とかには関係ないよーってなるかもしれない。

でも個人的な考えでは・・・人間の周りにはどこまで言っても人間が居て、何をしていても最後には人の考え方がモノを言う。何をしていてもどこに居ても、自分の行う事には「プロセス」が存在し、そのプロセスに当てはめられる「公式」は年々多様化していく。
だったら公式を何かから覚えるよりも、自分の哲学から「自分なりの公式」を毎回導きだせる事が今後必要となってくるのではないか??

彼女が出来るとこんなにいいんだぜーって誰かに言われるよりも、自分で体験した方が楽しいし分かりやすい。

デザインシンキングって何?って人に聞くよりも自分で体験した方が良い。

そこから導きだされる答えが人と同じとは限らない。でもそれを個人として大切に育てていく事、それを他人とぶつけ合って少しずつ変えていく事が人としての成長なのだと思う。


この記事もそう。形にしてしまう時点でおそらく他人にそこまでは伝わらない。同じような考えをもった人には伝わるかもしれないけども人の考えなんて100%伝える事は不可能だ。
それにこうやって考えている人は世の中にいくらでも居る。それを表現している人もいくらでも居る。だから「このブログも他の記事と同じようなこと言っているよ」って思う人もいると思う。ただそれでもいいんだ。この記事は誰かが言っていた事ではなく、自分の経験が導きだした、自分なりの答え。(とは言え友達との話の中からinspire されたのだけれどもw)この「答え」ってもっと丸く言えば自分なりの考え方。人と話してどんどんその形は変わっていくと思う。

でもこうやって何かの経験から何かを感じ取る、それに喜びを感じられるような生き方で居ようと思う。

そういった意味で「知識」や「スキル」以上に「経験」をくれたME310のプロジェクトには本当に感謝している。

経験を得る上で大事なのはおそらく「環境」。人生の中で自分ほど「環境」に恵まれている人は居ないんじゃないかってくらい自分は環境に恵まれていると思う。親もそうだし友達もそうだし学校もそうだし留学とかもそうだし。
今度は自分自身がそのような環境を作れる人として存在していきたいと思う。


なんだこの意思表明ブログw すいません。

留学とか旅行とかに限らず、「環境の提供」ってvision を持った会社ってのも大成するかもなーなんて思ったり・・・

(この記事は [KNLog: ME310 を通じて自分なりのまとめ] の中の1記事です)

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2011/07/27

インプットとアウトプット

日本人とフランス人、もしくは欧米の人全般かもしれないけどアウトプットの違いがとてつもない。

理系的に言うと
output = f(input) である事は誰もが納得してくれると思うんだけれども

fj(x) ・・・・japanese の関数
fe(x)・・・・europeanの関数
とするとおそらく
fe'(x) = 10fj'(x)  くらいある。

きもいなこのたとえ・・・

健全な形に話を戻しますw

例えば話しの仕方。

話を盛ると言ったら言い過ぎだけれども、とにかく伝えるのが上手い人が多い。政治家向きかな。
 ホントに少しの事でも大きくやったように話す事が出来る。

なんでこんなに上手いんだろうと思って聞いた事がある。特に文系出身の人に突出してその上手さはよく見られる。んで聞いてみた。
そしたら授業の一貫でSpeech があるらしい。
「AとBとC ってキーワードで10分間スピーチしなさい」
ってのを毎週?だか毎回の授業でだか分からないけどやるっぽい。
日本人的な感覚で言うとなんかムダだなーって思ったりするけどやっぱりプレゼンの時とか交渉の時とか、自分たちがこんなに大変な事をやったんだ、とか女の人を口説く時とか(?) かなり役に立っているのを見る。


Whereas 日本人はinput に重点を置く気もする。
関数f は社会に出てから見つけるという暗黙の了解、もしくはそこに関数があるかすら分からない。

例えば今回プロジェクトでArduino とか使って電子回路?的な電流とか電圧とかの計算をしまくってる人が居た。自分も物理のテストの紙の上に書いてあれば出来る自信はある。でもその機械を見て、ここがこれで・・・って実際に使う事は出来ない。それはfに代入するやり方を知らないから・・・ってことにしたら上手く説明つくかな・・・


東大からStanford に行った友達と話をした時もそんな事を行っていた。授業としては東大の方が難しい事をやってる。ただこっち(Stanford)はそれを社会で上手く使う方法を知っている、と。

それは自分も思う。「如何に社会に役立てるか」が勉強、もしくは工学の意義であるとしたらそれを教えないのは言語道断。。。。な気もする。


Franceの理系の大学では入ってすぐInternship を強要される。それも本当にいい仕組みだと思う。社会を知って、自分の学ぶ分野を明白にした上で勉強に従事する。
日本の社会はInput の社会。個人的には世界一だと思ってる。。。インドとかは分からないけど。。。

ただそれを関数に代入する発想すらない事が多い。自分たちの関数は紙の上にしか応用出来ない。

まーこっからだな!input が実は一番大変な作業だってことを本能的に知ってるんだと思う。だからそれを出来る日本人は強い!でもそれをoutput に変換しない事にはまさに宝の持ち腐れ。

という事でどーやってこれが使えるかってことを考えながら勉強していけたらなって思います :)

(この記事は [KNLog: ME310 を通じて自分なりのまとめ] の中の1記事です)


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2011/07/26

Catch me if you can, I am a Computer

最近ずっとME310のネタばかり書いていたのでちょっと変えてみる。


タイトルはパクリです。すいません

インターネットが世に広まってきて15年以上。
昔インターネットが出てきた時の事は何となく覚えている。

その当時8歳前後だった私も、Windows 95 とかそこら編の名前を聞くと懐かしいと思える。
じぶんが初めて使ったパソコンは覚えてないけれども、自分の家でWindows me がを使った時の感動は鮮明に・・・と言いたいところだが、なんとなく、覚えている。

もちろんそれ以前にそんなハイテク機械など家にはなかった訳で。自分になじみのあるディスプレイはテレビのみであり、機械といったらスーパーファミコンであった。そんな私に、パソコンというのは明らかに異次元への入り口であった。


共感する人も居るかもしれない。
昔、パソコンは何が出来るの?と聞かれたらすぐさま「インターネット」と答えた
インターネットってなに?と聞かれたら、あの青いe のマークに輪っかのついたようなあのInternet Explorer のアイコンの事だと思っていた。
そしてそれは同時に、Yahoo から始まるものだと思い込んでいた。


というよりも
パソコン=インターネット= yahooのトップ画面
であると思っていたといっても過言ではない。たまにゲームも出来るくらいだ。ただそれも、インターネットのおまけくらいにしか思っていなかった。
IE のアップデートとかをしてしまった暁にブラウザを開いてもyahooのトップ画面が出てこなかった日には、それはもはやインターネットでなくなってしまったかと思うほどだ。


いつ頃からトップページとしてgoogle を使いだし、レポートとしてword を使い、計算にexcel を使いだしたのかはわからない。いつから、パソコンは「インターネット」でなく、「なんでもbox」になったのかは分からない。
ただこれは明らかな前進である。この一見単純なようで大きな前進はとてつもないvision の変化である。なぜか?



私の名前はKenji である。
私はMichael でもある。
そして Robert でもある。



とまぁなんとなく3つの名前を書いてみた。
何言ってんだこいつ?と思った人も多いだろう。
もちろん私の名前はKenji だけだ。ただ先に述べた大きな前進とは、私にこの3つの名前、もしくはそれ以上があると本当に信じ込む事と同じなのである。

どういうことか?
今我々はパソコンを通じて、もちろんインターネットを通じてで色んなものを経験している。いろいろな情報にアクセスし、いろいろな操作を行っている。
ただ考えてほしい。パソコンがなかった時代の事を。
家には何があっただろうか?

寝るための布団
遠隔地と通信するための電話
明かりをつけるための電気
紙を送るためのFax
風邪を送るための扇風機
室温を調節するためのエアコン
時間を見るための時計

これらすべてがひとつの目的のために、ひとつのものが存在している。
つまりひとつの目的に応じてハードもひとつ存在する事が当然であったのだ。

まるで人間の名前のように。

ただパソコンはどうか?

Facebook を使い、Twitter を使い、ブログを使い、google を使い、word, excel, illustrator, photoshop, power point, keynote, .... 数えきれないほどのアプリケーションをひとつのパソコンという中で用いている。

携帯電話でも電話をし、メールをし、ゲームをし、・・・さまざまな事をしている。



それは実はインターフェイスを語る上ではとんでもない進歩なのではないかと勝手に思っている。

パソコンをひとつのインターフェイスとして考えると、パソコンはまさに何でもインターフェイス。


さっきの例でいえば、誰もがなにを疑う事もなく私の名前をKenji でありMichael でありRobert であると信じ込み、状況に応じて名前を呼び分け使っているようなもの。なんか恐ろしい進歩だなーって勝手に思ってしまったと同時に、それを我々や現代の子供は当然のように受け入れている事にも人間としての進化を感じる。
ただ一方でまだ パソコン=インターネット=Yahoo の様に思っている人も居るのではないかと思ってしまう。ひとつのハードに、ひとつのファンクション、のように


全てをひとつにつぎ込んできた時代から、どっちかというと今その逆の流れも出てきている。

例えば石井先生の提案するタンジブルの概念。

触れる情報、のようなイメージだけれどもこれは情報に触るためのファンクションを出来る限り直感的に、触れるものとして作っていこうというインターフェイス。

この方が「わかりやすい」とか「あつかいやすい」と思う事が多いのは動物としての本性として「1個のモノに1個の機能」の方が扱いやすいからか、「何でもインターフェイス」にしたが故に全てに対応する事が出来ていないからか分からないけど、今後もう少しまた「1個のモノに1個の機能」の方に流れが行くと思うんだよな。


俺ひとつの名前だけで十分だもん。

2011/07/20

ME310を通じて 謝辞

一応。。。書いておこうかな。
ME310を終えておもったことのまとめの記事を書き終えてから書くつもりだったけれどもいつ終わるか分からないので今のうちに


いろーーーんな事を得れた一年だった。まずは、親にありがとうと言いたい。金銭的な面でもいろいろ支えてもらったし、いろんなところでサポートしてもらった。おそらく人生の中の1大事である311の時に近くに居られなくてすいません。ただかけがえのない経験を出来ました。本当にありがとうございます。

次に・・・Sushi かな。彼はアメリカ育ちの日本人。自分にME310の話を持ってきてくれた。Design thinking の事から英語とか文化とかいろんなモノを学んだ。デザインに於いてSushi イズムが日本人やパリ d.school には浸透していると思う。本当にSushiの下で学べて良かった。ありがとうございます。

それから・・・梅室先生。東工大の教授です。このような場所に行くことを快く受け入れて下さり、またサポートしていただきありがとうございます。

と日本に居る留学生の方々。フランスから来た方々にたくさんお世話になった。ありがとう

あとは日本人留学生達。寮生活は楽しかったしみんなといた事は刺激的だった。またみんなで語ろう。つっても3/4は東工大でしょっちゅう会うけれども

ふーーあとは日本語で書いても意味ない人ばかり。
パリのT-team みんな温かい人達でプロジェクトが成功したのはみなさんのおかげです。

あとはパリの人達とチームメンバーか。フランス人で一人日本語を勉強してるって言ってたからそのうち読めるようになるのかな?w フィンランドのチームメイトも、フランスのチームメイトもみんな最高だった。たまにストレスは溜めたけど、というかかなりストレスは溜めたけど、あのチームでよかった。めっちゃ楽しかった。もっかいなんかやりたいね :)


フィンランドの人とかもありがとう。みんなに気に入られて楽しかったよ。
パリに居なかったMEの日本人メンバーの人もありがとう。女性には理由ないけどなんとなく謝っておきます。すいません。

パリで会った人も、スタンフォードであった人も、もちろんそれはプロジェクト以外のメンバーも含めてなんかいい人に恵まれたなーーー。

いろんな人に支えられて、なにもわからずあたふたしてた毎日。
いつのまにか俺もそこに慣れてって、ちょっとはしっかりしたのかな。

成長したかはわからない。

ただ周りに成長したなって思われるように今後も頑張っていきたいです。
社会人になるまでもーちょい子供で居ます。ありがとうみなさん。

(この記事は一応 [KNLog: ME310 を通じて自分なりのまとめ] の中の1記事です)

2011/07/07

広告というお邪魔虫|おもしろデザイン

こんな事書いて大丈夫なのかな
就職に影響ありませんように

ヘルシンキに行ったときに、バス停に広告があった。
まー普通の話

別のバス停には広告がなかった。
その理由は、みんなが1ユーロだか2ユーロだか払ったから。

お金を払って、広告をなくしたらしい。
そして広告の代わりにデザイナーだかなんだかの絵とかそゆのを載せたりした

まーシンプルなアイディアだけど
なんか好きだ。

インターネットとかだと有料会員、とかになるのかもしれないけどそゆの普及させても面白いかもなー

0円と1円の違いも0円と10円の違いもあんまり変わらないように、
0か1かはデカイ。
けどそれでも払う人はいたりする。


なにやらスカイプとかにも広告が出てくるとかなんとか。
100円くらいなら払うから広告なくしてほしいな

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2011/06/18

ME310 終わって

 頑張って努力して、勝負して乗り越えて、「やり遂げた」瞬間の喜びは何物にも代え難い。だがその瞬間に次の一歩を踏み出すべき足は、ぬかるみにはまっていたりする。

上の井上雄彦さんがバガボンドの裏表紙で言っていた言葉大好きなんだよな。


サッカーでもそうだった。高校終わってプロになるのはさすがに無理だなーって思って、サッカー終りにした。
その時やっぱりまー悲しかったしサッカーは続けたかったけど、サッカーは終わりって感じに思えたんだ。んで何をやり遂げたわけでもないけど、いい結果をあるていど残して、そこに甘んじて、次の一歩は踏み出せなかった。



正直MEのプロジェクト、まだまだいろーーーーーーんなことやりたいけど、やらなきゃいけないけど、成功だったと思う。何百枚にもわたるドキュメント描いたり、1人じゃ到底作れないプロダクト?プロトタイプ?作ったり、最高のプレゼンしたり、最高の仲間とハッピーエンドを迎えられた・・・

ただ・・・日本に帰って

「あーあれよかったなー」ってなってちゃいけないんだろうな。


早いとこ「次」をさがそう。
ぬかるみにはまらないうちに。
進んでなきゃだめなんだ俺は。

2011/05/17

人間はそれでも進化する

この動画を見てちょっと思った









きっとまだまだ人間は進化する。


こんな感じで。。。

今は左側気味かなー

3dとかAR(昔のブログで若干触れた)とかが発展していけば、何かデバイスはもつ気がする。。可能性の一つとしてメガネをあげておいた。
昔あげたカメラを取るときのプロブレムとかも解消できるし・・・・

背筋伸ばして縮めて、人生はサイクルだーみたいな哲学的なことも言えるけどもうちょい 大きなサイクルでも見れて「道具」にも着目できる
 人は道具を持つことでどんどん文明を発展させていったけど、今後は道具を持たないようにする努力をする気がする・・・・気がする・・・・



でもまーサイクルだーみたいになったら、最後は自然に帰るのかな。。。

Nobody knows


日によるけどたまにメガネ をかけてる俺は若干未来派なのか・・・

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2011/05/08

Twitter という名の新しき、そして恐ろしきコミュニケーションツール

技術が発展して、いろーーーーんな事が可能になってる。なんでも検索することが出来て、なんでも便利に行える。

最近Twitter やFacebookなど、日常的にコンピュータの中での内容を友達と話すことも多くなった。

ある知人にTwitterはリアルな生活で言うとなににあたるものなんだろうね、という疑問をなげかけられた。
E-mail: 手紙
Blog: 記事
Twitter: ?

はて・・・一体なんだろう?
俺は「独り言でない一人言」と応えた。
直感で言ったけど、ホントにそうなのかなーなんてちょくちょく考えてた。今日のブログではその考えた結果をまとめてみようと思う。  個人的にTwitterが他のコミュニケーションツールと違うのは「時間軸」と「中心的」。

まず一つ目の「時間軸」について

結構「言葉」ってのが好きで、昔調べたことがある。
ある本には、

言葉の目的は情報伝えるためであり、その手段はいくらでもあった。匂いを出す、色を変える、動きで表す・・・などなど
ただ人間はその中から「音」を選んだ。このチョイスがまたなかなか良い選択。体力的にも、コミュニケーションの速さからしても。例えば匂いで情報を伝達する場合には一度匂いを出したら次の事象を伝えるためには場所を変えないといけないとか、いろいろ弊害が生じる。

てなことが書いてあったな。。。


そこでなんとなくおもった。このメリットは、なんとなくデメリットでもあると。。。
「愛してる」と人に伝えても、その言葉は残ることなく虚しく消えて行く。それを保存したいと思った誰かが「文字」を発明し、本や何かに「残す」方法を思いついた。(わからんけど多分文字のほうが言葉より後だよね?笑)さらには発展して「録音」という方法すら創りだした。

また言葉って言う「有限な材料」を用いて感情という(個人的な考えでは)「無限」に存在する概念を表現する際に、失われた情報というものが出てくる。言葉では表現できないそれらの空白を補うために人はそれをリズムにのせ、体を動かし、絵を描いて表現した。・・・・と自分が思っているのは今回はあんま関係ない。

でもでもそうやって情報の伝達方法ってのは 進化してきたんだと思うんだ。完全に個人の予想から入ってるけど。。。より正確に、自分の情報を伝えたい、より良いコミュニケーションがしたい、と

さっき「時間軸」が他のそれと違う、といったのは、ここから来てる。言葉が一瞬で消えるのに対して、本や絵は一生残る。じゃぁツイッターは?
ある意味電子化されているから、一生残る、けど明らかに下に埋もれたツイートを掘り下げる人なんていないし、それを誰もが分かっているから、「保存用」の発言はめったにしない。だからプライベートみたいな感じになるし、より親近感のある内容になる。ある意味、口から発する言葉と書き留める文字の中間ようなものだ。。。そしてその特徴はチャットとかにも顕著に見える。ただチャットと違うのは次の項目の「中心的」という概念

「中心的」
正直「時間軸」 と語呂というかリズムを合わせるためにこの言葉を使いました。。。。すんません
1番大きい意味は「自己中心的」の中心的
会話をする際に、他人のことを考えてない人なんてまずいない・・・はず笑 特に日本人


・・・・・ストレスのある社会ですよね、今の世の中 笑

いろーーんな人に気を使って・・・誰もが一回くらい「自分の好きなことやって楽しめてる人っていいなー」って思っている気がするんだ。。。Twitterはある意味発言を自分の好きにさせてくれる機会を提供してくれている・・・

愚痴って程でもないけど、Twitterの面白いところはなんでも言っていいところ。。。たとえばmixiとか、一応友達を意識する。。。もちろんtwitterもモラル的なところは意識しなきゃいけないのかもだけど「時間軸」でも言ったように、あんまり体裁を整えてつぶやかなくて良い。まーフォロワーが増えるに連れおっぱいーとか発言できなくなったのは事実だけど笑 

んで自分の好きにつぶやいたことで、誰かが返事をくれたりする。ある意味、全然気を使わないコミュニケーションになっている気がするんだ。。。それが「自己中心的」の意味。
あえて「自己」を付けなかったのは語呂以外の理由に、@を付けてつぶやくと、その人を中心に出来るからって感じでする笑

多分最もわかり易い例が「金欲しー」とか「デートしてー」とか言うつぶやき。。。そんなにそゆこと言う人はいないと思うし自分も後者しかつぶやいたことないけど、 そんな事でも言えるのがTwitterのいいところ。。。たとえばだれかふたりきりの時にこんな事言った日にはたちまち勘違いされる。。。けど、拾いたいひとだけ拾ってってね、って感じのスタンスがツイッターにはある・・・

寂しがりにはもってこいのツールだよなーーー。。。かまってーって実生活では言えないけど、つぶやけば構ってもらえるし。。。

今まで自己中心的に言葉を発信する機会は、なんかアーティストとかジャーナリストとかにしか与えられていなかった気がするんだ。Twitter によってそれがみんなにも与えられた感じ。

こっから考えると、一つの仮説が・・・「より多くつぶやく人ほど、実際の生活では自己中心的な発言を出来ていない?」


もしかしたらあり得るかもなーーー笑


まぁこの二つが、個人的なTwitterの特徴。要は「情報の表現の仕方」が新しくて、「情報の伝え方」が一般の人には今まで無い形であった。。。

じゃぁなぜTwitterはそこまで流行ることになったのか?最初に多少技術が発展して、我々の生活は「便利」になった、と言った。けどTwitterが俺らの生活の何を便利にしたのか?

きっと今までの方法では、伝えていなかった情報ってのはたくさんあって、それらはTwitterの発明によって少しは減ったのかもしれない。
もし勝手な 想像をしていいなら、Twitterの画像バージョンや動画バージョン、もしくは音楽とか絵とか、そゆタイプのものもいつの日か流行る気もする。ブログが雑誌記事のように例えられる中で、自分がジャーナリストじゃないと思っても記事を書く人はいくらでもいる。それと同じ。



何万年も前から伝わってきたコミュニケーション方法ではいつしか満足できなくなって、あらたなコミュニケーションのプラットフォームを創りだす。それ自体は悪いことではない。。。でもでも、今回の原子力とかじゃないけど、これは明らかに「生物としてのコミュニケーション能力」をはるかに超えていると思うんだ。。。


まだまだ先は長い。。。けど「今あるもの」に満足をしないで新たなコミュニケーションの場をつくることで人はもっとより良くより深く人のことを簡単に知ることが出来る、自分のことを簡単に表現することができる。。。 でもその豊かなコミュニケーションの場を提供するのは同時に、危険なことだと思うんだ。実際の世界で無理して「寂しいよー」って言わなくても、Twitterとかが助けてくれるんだもん。。。そしたらもしかしたら人は実世界でそゆのに気づいてもらう努力をやめるかもしれない。女の子だって上目遣いしなくなるかもしれない。。。進歩だけど退化する部分もある。奥ゆかしさみたいなそゆのとか、きっと工夫はどんどんなくなる。いままで伝わりにくい何かを伝えるために本を描いていたのが、歌を歌っていたのが、それよりもっと気楽に表現出来るものを見つけてしまったばっかりにそれらを「作品」にすることなく表現しきってしまう。。。


100のインパクトが無い代わりに、1のインパクトを100回続ける感じ。。。

人間の心にもホメオスタシス、恒常性みたいなものがあるって聞いたことがある。悪いことの話とかだけど、すごいやなことがいきなりあったりしても、それは時間と共に薄れていく。。。危険なのは小さくても悪いことがずーーーっと続くこと。心に悪いものがどんどん溜まっていく感じ。

いい方向だとどうなんだろうな。。。

まーmixiとかの過疎化をみても分かるように・・・人は気軽なものを好む。。。たまに見た友達の力作日記もあんま見れなくなる。。。


そんな感じででっかいインパクトはすくなりそうだよね。。。


 そしたら何が起こるか?毎日1のインパクトを得ることが普通になって、今度は2を求めるようになる。一生満足できないだろうなー。。。まーそれはそれでいいのかな・・・


いつしか体の中にコンピュータとか 埋めこむ日が来そうだ :(



まーいいけどな。ただ伝える内容がどんどん増えていって、10とか100とかをコンスタントに伝えることが出来るようになるかもしれない。。。ただそれでもおそらく人が思っていることを100%伝えることは不可能・・・かは分からないけどそうはなってほしくない。。。


月に兎がいるって考えてるほうが楽しい。月に何個クレーターがあるかとか数えてるより。

人が人のことをすべて知ったら、人は知らない何かに興味を示す。そなったらやばそう


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2011/05/04

一人言と独り言の違い

あーーんまり、、、、、このトピックに突っ込んでいるひとっていなかったんだよなぁ


一人と独りの違いってな大きなもので・・・多分そこら辺について考えているひとってたくさんいるよな・・・


ただあんまり独り言と一人言についてあんまり書いてる人ってきっとあんまりいないと思うんだ・・・個人的な定義

一人言: 自分で自分に向かって言うんだけど、誰かに拾ってもらえたら拾ってもらおーって感じの言葉


独り言: ホントに誰もいなくても、自分で誰かとシェアするためでなく言ってしまう言葉。「くそー」とかがいい例かなー。。。


ただいただきますって一人でいても言うことあるよなぁ・・・
それはどっちにも含まれている気がする。自分の的に。
なんか別に宗教とかはないけど、何かに感謝の気持ちを伝えてる気がするんだ。。。それを言うことによって。



一人言のいい例が、Twitterとか・・・多分結構いると思うけど、人に聞こえるように「つかれたー」とか言う人とか・・・
その形のコミュニケーションて、ツイッター以前には着目されていなかったんだよなー。


一人言を言う時のコミュニケーションの形って、どんな感じのものなんだろうなー。
シカトしてもいいよ、適当に拾える人拾ってねってやつか。。。それがどうコミュニケーションを enhance するかとか考えるのっておもしろそうだな・・・・
初見の人にTwitterを使わせるのとface to face で話させるのと・・・とかとか・・・

一人ごとを拾ったときの話しの広がり用と、普通に話したときの広がりようの違い、
もつ印象、気まずさ、とかそゆのは研究のネタにすらなりそうだなーー笑


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2011/05/03

Tangible user interface と Augmented Reality

正直自分はまー・・・そんなにこゆトピックに詳しいわけじゃないけど、なんとなく個人的に熱くなりそうな分野であると認識している
AR (拡張現実) の世界と、それよりも早くから打ち出された、MIT の石井裕先生とかがやっているタンジブルのテクノロジーに付いての議論。。。

ちょっと並べるのは違うかもだけどなー。
Wikipediaに寄ると、ARは

拡張現実(かくちょうげんじつ)とは、現実環境コンピュータを用いて情報を付加提示する技術、および情報を付加提示された環境そのものを指す言葉。


tangibleとは
タンジブルユーザインターフェースTangible user interface)もしくはタンジブル・ビット(Tangible bits)とは、マサチューセッツ工科大学(MIT)教授石井裕が提唱するユーザインタフェースの形態である。
既存のコンピュータの概念を一新し、形のない情報を直接触れることができる(タンジブル)ようにした、より実体感のあるインタフェースである。


てなってる。
ちなみに石井先生はタンジブルのことを
「物理的な直接触れるメディアを使ってコンピューターと対話する」って表現してる

まー自分の認識でいうこれ!って言う動画あげておきます
一つはまずARに付いて


んでtangible




他にもいろいろ :)






片方は技術や環境で片方はインターフェイスてな感じなんだよなー
もともとタンジブルってiPhone とかが出てくる前に出てきたものだった気がする・・・たしかiPhoneはマイノリティ・リポートとかのインターフェイスの後に出てて、そのマイノリティ・リポートの有名なインターフェイスはMITとかから取ってきたとか。。。定かではない ><




ただ・・・タンジブルとは結構認識が違うのかもしれないけど、現実世界のデータとか操作をパソコンの中に読み込ませるって意味でこれらのタンジブルのテクノロジーを認識すると、タンジブル(?そういうものの名前ってあるのかな?拡張現実の逆で「現実拡張」みたいな感じ笑 とりあえずタンジブル(仮)と名付けさせてもらう)とARってのは若干逆な発想な気がするんだよな。。。写真とかをスキャナとかなしで取り込んでくれるとか、ノートに書いたふりだけでパソコンに取り込まれるとか、とかとかとかとか :)

これらを微妙にうまく組み合わせたものが前も紹介したsix senseて感じ( Pranav Mistry at TED; The Sixth Sense おもしろデザイン・・・)

ただ・・・six sense だけが全てではないし、これらをうまく組み合わせていくのが面白そうな気がするんだよなー :)

実世界の操作をパソコンに反映する、もしくは実世界のデータをパソコンに取り入れる「タンジブル(仮)」


パソコンのデータを実世界に表示する「AR」


ARで表示させるデータを触れるものにすることができたら????


そのうちそのアイディアを少なくとも1つは書いて見せよー。。。。
なんとなく出かかってはいるからなーーー><

もしかしたらIDEA blogの方に書くかもしれないけど・・・ (KNIdea)


とりあえずそんなことを思ってました :)


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2011/04/09

最近思わないこと

東工大に入学して、3年くらいになるまでは、なんとなく早慶に行かなかったことを後悔したりもした。

というのも、それまでの人生において、サッカーの占める割合があまりにも多すぎたから。。。


早慶行っておけばサッカー部とか楽しかったのかなーとか思うことも少なくなかった



1年から3年くらいまでは、ほんとに自分の中では黒歴史。


ガッコ終わってかえって、なーーーんもしない時もあったし、ひとりでゲームとかして過ごす日もあった。哲学書読んでまとめたり、なんか悟り開きそうだったw




東工大を選んだ理由は学費とか、あとは・・・サッカーやりたいっていっても、それを職業にするのは俺には無理だと思ったし、学業に専念しようってなったときにどっちが環境がいいかって考えて東工大を選んだ。


もちろんいい友だちとかもできたし、それなりの、ふつーーーの大学生。。。


ただ物足りなかったのは否めない。

それに「学業に専念する」なんてそんなん無理だったからなぁw

それまでの生活が忙しいというか・・・勉強、サッカー、友達、みたく詰まってたから、なにも悩むこともなかったし、すごい充実した生活を送ってた



ただ、最近になってそうやって思うことがなくなった


きっとサッカーを続けていたらこんなに自分と向きあう時間もなかったし、


こうやって海外で生活するチャンスもなかっただろうし、

英語とかも勉強しきれてなかったと思う。。。。



「間違った判断」なんて無いんだなってもうちょっと強く思えるようになった。


その判断を間違ったものにするかどうかは、確実に自分のその後の行動。


がんばろっと


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2011/04/04

Paris パリ 震災 チャリティーバザー in Opera

昨日 4月3日、


パリにて日本に向けたチャリティーバザーがありました。






公式サイト



僕はそこにスタッフとして参加。

とはいうものの・・・入り口で混み合わないように人まわすくらいしかしてないけどw
しかもそこにはちゃんとしっかりした人もいたし、力になれたーって自信持って言えるほどでもないw


実際にこのバザーを企画した人とは顔も知らない・・・

俺を誘ってくれたのも、企画者の友達の友達の友達くらいでしたw

まー6人知り合いを通せば誰にでも届くっていうしなw

正直どうやってこのチャリティーバザーができたのかも知らなかったし、仕組みもデカさもなんも知らなかった。とりあえずの認識は、日本のためになんかやってる人がいて、俺にもその手伝いが出来るらしい、くらい。 休憩も含め8時間くらいだけだけどいろいろやってました。最初から準備をしてた人はほんとに大変だっただろうなぁ・・・

まー自分がやったことは正直自己満な気もするよなぁ・・・えらいのは企画とかして頑張った人たち。俺は正直何もしてない・・・日本ではみんな頑張ってるのに俺は何もできてなくて、なんかやった!っていう形が、自分を安心させるために欲しいだけな気もした

まーいっかな、それだけでw

募金もしておきました。学校で募った募金だけだけどw



いろーんな人がいて、みんな日本を応援してくれていた・・・







めっちゃ行動力とかある人とかすごいなー。こんな感じで人を動かせる人になれるとよいと思う。 ほんとに自己満でよかったーってだけで終わらせないためには、この後が大事なのか。。。今後こう言うことをしてもいいと思うし、いつかこうやってこう言うことをすることがあったら、なんか少しは役に立つだろうしな。。。



うむ・・・

以下リンク。Youtube に動画とかもアップされてました。めざましテレビとかも来てたし・・・

2011/03/17

デザインとアートの違い その1

デザインとアートの違いってなに?

線引きってどこ??


友達と話してたら、


「デザインはユーザーのニーズを満たすインターフェース」


「アートは主張したいものを伝えるインターフェース」


って感じになった。


デザイナーに聞いたら、
「デザインは人々の生活に入り込む物」

という答えをもらった。


なんとなく重なったり、似たような概念な気もするけど、
まったくの別物。



ただなんとなくかっこいい机とか家とかさ、よくデザイナーズ〇〇とか言うけど・・・

どうなのかね?


デザインの定義って何なんだろう?

デザイン(design)は、ある対象について、良い構成を工夫すること。意匠(いしょう)。デザインを業とする人をデザイナーと呼ぶ。
狭義には、設計を行う際の形態、特に図案や模様を計画、レイアウトすることで、芸術美術的な意味を含んでいる。美術を実用品に応用するため、応用美術とも言う。また、商業的なデザインを商業美術とも言う。産業革命の影響により、デザインの意識が高まり、アール・ヌーヴォーなどの流行、バウハウス機能主義など、常に時代の象徴を創造し続けている。その対象は、非常に多岐にわたり、さらに細分化される流れにある。 デザイン界ではアーツ・アンド・クラフツ運動によって生活と芸術の統一が課題になり、それを受け継いだドイツ工作連盟によって芸術と産業の統一が意図され、その重要性が認識されるようになる。

広義には、デザインとは、日本語では「設計」にあたり、「形態」や「意匠」と訳されてきたが、それだけに限らず、人間の行為(その多くは目的を持つ)をより良いかたちで適えるための「計画」である。人間が作り出すものは特定の目的を持ち、それに適うようデザイナー(設計者)の手によって計画されるのである。デザインの対象は、衣服印刷物工業製品建築などにとどまらず、都市や人生計画にもおよぶ。
(Wikipedia)

ちなみにアート(芸術)
芸術(げいじゅつ、: η τεχνηtechné: ars: art)とは、表現者あるいは表現物と、鑑賞者とが相互に作用し合うことなどで、精神的・感覚的な変動を得ようとする活動。美術文芸音楽建築演劇などを指す。藝術の略式表記[1]

(Wikipedia)

ほうほう。となると、
デザインは工夫
アートは創成

ってな感じな気がしてくるな。

ふーむ。他にもweb で調べると
アートは造形自体が目的で、デザインは造形が手段です。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/2903654.html


とかあった。

この表現も面白いけどな。

なんか昔
「手段が目的になると空虚になる」

って言葉を本で読んだ気がするんだ。

となるとなんとなくアートは空虚なものでもなく、それ自体もまた何かを伝えるための手段な気がするんだよなーーー。



このトピックは長引きそうなのでタイトルにその1を付けさせてもらいました

(この記事は [KNLog: ME310 を通じて自分なりのまとめ] の中の1記事です)